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和歌山城
和歌山城は、天正13年(1585)に紀伊を統一した豊臣秀吉が
弟の豊臣秀長に築城させたのが始まりです。
築城を担ったのは、築城の名手藤童高虎で、本丸を造りました。
豊臣秀長は和歌山城の完成を見ることなく、奈良の大和郡山に赴いており和歌山に戻る事はありませんでした。翌年の天正14年(1586)豊臣秀長の家臣桑山重晴が城代として和歌山城に入り 14年間の在城期間に築城を進めていきました。
慶長5年(1600)、関が原の戦いで功のあった浅野幸長が37万6千石を領して城主となり、築城工事も次々に行いましたが 元和5年(1619)浅野氏は安芸広島へ移封され、徳川家康の第十子徳川頼宣が、55万石を領し和歌山城主となりました。 |
それ以来 紀伊和歌山は 尾張、水戸と並び 徳川御三家の一つとなり徳川幕府の西国支配の要衝として威容を誇ってきました。
徳川頼宣の和歌山入城の時は銀二千貫が支給され
城郭の整備や城下町和歌山の拡張が実施され
以後250年以上にわたり和歌山が繁栄していきました。また、八代将軍となった徳川吉宗は33歳まで藩主として活躍し、享保の改革をここで築きました。
弘化3年(1846)に天守閣に落雷があり、和歌山城は多くを消失してしまいます。幕府は制として城郭再建を許しませんでしたが、和歌山城は運良く御三家徳川家の居城だっただけに再建を許可され 4年後に再建しました。
明治になると 廃藩置県で和歌山城は廃城となり 明治34年(1901)年に和歌山公園として公開され、昭和10年(1935)には天守閣隅櫓、楠門など国宝建造物に指定されますが、太平洋戦争の和歌山空襲では戦災を蒙り、天主台のみの姿となってしまいました。
戦後 和歌山城の再建を望む和歌山市民の熱意や各方面の支援や協力で 昭和33年(1958)鉄筋コンクリート造りの天主が復元されました。
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最上層は廻廊高欄造りで 展望エリアとして整備され、和歌山市街、紀ノ川、紀淡海峡が一望できます。 |
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和歌山城から和歌山市中心部を望む
左の白い高層建築は和歌山の市役所です。
右のベージュの高層建築はダイワロイネットホテル和歌山で、全221室・和歌山で最大級です。
(和歌山では中心市街地にビジネスホテルが多く、日本旅館は和歌浦地区に多い)
下の写真は和歌山城から紀ノ川を遠望 |
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なお和歌山城では、長い歳月を掛けて城郭が形成されてきただけに
時代の変遷を映すように 石垣の石積みにも変化が見られます。
先述の原始的な「野面積」(野面積の石積みが見られるのは天守閣の真下あたりです(虎伏があるあたり))から
大石の間に小石を詰めた「打ち込みハギ」(入り口の大手門を入って“大くすの木”の後ろ付近)
その後江戸時代の 石材の切り口を合わせて精巧に積み上げた「切り込みハギ」(先述の“打ち込みハギの所”から奥に入り右折した辺り)など いろいろな石積みを垣間見る事が出来、興味深かったです。(なお野面積は高知城でも見ることが出来ます)
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和歌山城天主の北麓に 二の丸、紅葉渓庭園などがあります
御橋廊下を望む(写真左)
二の丸庭園と濠と天守閣が見えるこの位置が 和歌山のベストアングルだと私は思います(和歌山バス・市役所前バス停至近)
二の丸
藩の役人が職務を司る所、藩主の公邸、奥女中の生活の場などがありました。
紅葉渓庭園(写真下3点すべて)
天守閣の北の二の丸御殿に、徳川頼宣が築いた江戸時代初期の庭園です。
釣殿風の「鳶魚閣」がある池や豪快な石組み、渓流などの風情が良く 名前の通り 紅葉の時期に来れば最高かもしれません。
茶室「紅松庵」ではお茶も楽しめます。
和歌山城 入館料 大人350円 小人170円(2006/2現在)休館日12月29日〜31日
開館時間は9:00〜17:00(12月〜2月は9:00〜16:00)入場は閉館30分前まで |
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和歌山の街を歩く
和歌山市内を散策してみました。戦災のために城下町の面影はほとんどありませんが、
城下町時代からの歴史を持つ 「ぶらくり丁」が町並み散策派を迎えてくれます。 |
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ぶらくり丁
1830 年(文政13)ごろの江戸時代から続く 和歌山市の中心商店街です 店先に商品をぶら下げていたことから「ぶらくり丁」と呼ばれるようになったといいます。
和歌山市でも 郊外型ショッピングモールの伸張や地場百貨店「丸正百貨店」の閉鎖(写真左)、大丸の撤退、和歌山ビブレ撤退(2001/5月)、長崎屋和歌山店撤退(2002/11月)などが相次ぎ かつて栄華を誇った既存市街地が沈滞している様子が見受けられました。
ぶらくり丁は「ぶらくり丁」「中ぶらくり丁」「東ぶらくり丁」「北ぶらくり丁」などから構成される並行した「=」の字型の商店街ですが 人の流れが遠のき 北ぶらくり丁は俗にいう「シャッター通り」(左下写真)と化しています。(※シャッター通り=売上減、後継者難などで扉を閉じた商店が立並ぶさま。既存市街地の空洞化が進んだ要因は、約30年前に旧大規模小売店法(大店法)が
都市中心部への出店を規制した点が大きい。
伝統を持った飲食店、衣料品店を中心とした店が並び 「地元ならではの味」は感じられますが‥ 大抵の主要都市によくある 外資系CD屋、大型書店、カフェチェーン、ツープライススーツ店、はたまたサザビー、KIHACHIなどがココには無く(私が見落としてたらスミマセン) |
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大手量販店ドンキホーテや携帯ショップ以外に、新規の店の進出が近年は見られない模様で、流行商品の消費を牽引するはずの若い女性があまり歩いていないのが残念です。
(なお和歌山県の県外への大学進学者率は全国一位です)
昔の活気を取り戻そうと 2000年の法改正で大店法を廃止し
「まちづくり三法(大店立地法、中心市街地活性化法、都市計画法)」の改正作業は進んでいますが、人口減少や高齢化で郊外の大型店にも翳りが出ている地方都市では、出店規制よりも民間の自由な発想を生かし 競争を進めるため総合的な街作り対策を打ち出すことが肝要です。
さもないと郊外店舗も衰退し、地元の人の雇用の場も減り 地域全体が活力を失う危険すらあります。
都市の魅力は中心商店街だけでなく、様々な構成要素から成り立つものです。 伝統や風格のある建造物は? 劇場・文化施設・球場・アミューズメントは? 緑地や親水環境は?
低公害の交通は? 各世代の交流スペースは? 工芸や技術など魅せる魅せられるスペースは?‥etc
「その土地に息づく歴史」「環境と街の調和」和歌山は幸いにもその資源が数多い気がしたのは 私だけでしょうか‥。 |
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↑ぶらくり丁の東側はレトロなお店も多い。バラのカレーは和歌山で美味いと評判らしいです。
←商店街は寂れても 中心部は銀行や証券会社などが変らずに集中しています。 |
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ぶらくり丁南詰の京橋
江戸時代は和歌山城の表玄関として京橋御門がそびえ
諸国に通じる街道の起点でした。京橋には京橋プロムナードができており 風情ある演出で町興しを図ろうとしている様子です。
京橋のある市堀川界隈は「納屋河岸(なやがし)」と呼ばれ
米、野菜、鮮魚、生活物資などの荷揚場として栄え
和歌山城下の生活を支えていました。
和歌山市の人口は37.5万人で和歌山県人口の40%以上を占めますが 人口は漸減傾向にあります。
距離的には大阪のベッドタウンとなりそうなものですが 泉州地域にまだまだ土地が有り余ってる上に和歌山市の地価の方が泉州地域より相対的に高いのが難点だとか。また和歌山は高速道路の整備が遅れたのと、南海、東南海地震のリスク、紀の川流域が中央構造線真下という最悪な条件のため 住友金属以外に大企業の工場立地が進まなかったのも要因だそうです。 |