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南西方面から望む
この真下は新交通システム「アストラムライン」が走っています |
広島城二の丸
二ノ丸表御門、太鼓櫓、多聞櫓は平成3年に復元されました。 |
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二ノ丸表御門 |
二の丸と本丸の間の濠 |
二の丸より見た濠 |
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表御門、多門櫓は 原爆被害後も残存していた礎石の上に
第五師団が測っていた図などを参考にして 昔の工法で忠実に再現されたようです。
本丸側より二の丸跡方面を望む(写真右)
写真中央の“濠の畔”には被爆アオギリの樹が見えます。
(広島城は爆心地より北に約700m)
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広島城完成のなんと翌年、関が原の戦い があり
西軍の総帥として大坂城にいた毛利輝元は
領土を周防長門(現在の山口県)に削られ萩に移りました。
その後、福島正則が広島城に入りますが 幕府の許可なしに城の修築を行い除封。
元和5年(1619)浅野長晟(あさのながあきら)が広島城に入り
以後、十二代(250年)世襲して明治維新を迎えます。
明治の新しい世になると 広島城には広島鎮台が置かれ
やがてそれは第五師団と改称され
(広島市は陸軍の町、呉市は海軍の町と呼ばれ)
広島城周辺は軍事色が強まってきます。
明治27年に日清戦争が始まりましたが、
それ以降広島城には 大本営(総司令部・天皇直属の軍最高統帥機関)が置かれ
太平洋戦争末期になると臨時首都的な様相を帯びていた広島は、昭和20年アメリカ軍の原子爆弾投下で 広島城共々廃虚となりました。 |
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天守閣は高さ31m 石垣の高さは11.2mで
内部は甲冑・刀・城下町復元模型
そして美術工芸品や郷土資料が展示されています。
鯉城公園の北西に位置しています。 |
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↑大本営跡
昭和10年に建てられた石碑の文字が
セメントで埋められていますが
敗戦後に不都合な事を消したのでしょうか。 |